カリヨンの戦い
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カリヨンの戦い(仏 Bataille de Fort Carillon、英 Battle of Fort Carillon、または1758年のタイコンデロガの戦い)は、フレンチ・インディアン戦争中の戦闘である。
概要 カリヨンの戦い, 時 ...
カリヨンの戦い | |||||||
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フレンチ・インディアン戦争中 | |||||||
兵士たちに三角帽子を振って応えるモンカルム。左側ではフランス陸軍旗が振られている。 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス王国 | グレートブリテン王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム フランソワ=ガストン・ド・レビ |
ジェームズ・アバークロンビー ジョージ・ハウ,第3代ハウ子爵(英語版) † | ||||||
戦力 | |||||||
3,600正規兵、民兵、同盟インディアン戦士団 |
6,000正規兵 12,000民兵、レンジャーズ、同盟インディアン戦士団[1] | ||||||
被害者数 | |||||||
戦死100 負傷500 捕囚150[2][3] |
戦死1,000 負傷500 行方不明100[2] | ||||||
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カリヨン砦(現在のタイコンデロガ砦)から約0.75マイル(1.2キロ)離れた高台で繰り広げられたこの戦いは、将軍ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルムと、フランソワ=ガストン・ド・レビに率いられた4,000人のフランス軍が、ジェームズ・アバークロンビー率いる、数の上では圧倒的に優勢なイギリス軍に、正面から奇襲を仕掛けられた。また、イギリス軍は、塹壕で囲まれたフランス陣地を大砲を使わずに攻撃した。フレンチ・インディアン戦争の中でも、最も血なまぐさい戦闘であり、戦死傷者は両軍合わせて3,000人を超え、うち2,000人以上がイギリス兵だった[4]。
兵力で相手を上回りながら、この戦闘でイギリス側は手痛い敗北を喫した。アメリカの歴史家であるローレンス・ヘンリー・ギプソンは、アバークロンビーの作戦についてこのように記している。「アメリカ大陸で起こった軍事行動のうちで、これほど指揮官の側に判断ミスが多い戦闘はかつてなかった」[5] 多くの軍事史の研究家が、カリヨンの戦いは、戦術面での軍事的無能の典型例として引き合いに出している[6]。