キエフ大公国
9世紀後半から13世紀半ばまで、キエフを中心としてドニプロ川沿岸に建国されていた、東スラヴ民族の国家 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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キエフ大公国(キエフたいこうこく、古東スラヴ語: Роусь(ルーシ)、英: Kievan Rus')[1][2]は、9世紀後半から13世紀半ばにかけて、東ヨーロッパおよび北ヨーロッパに存在した国家。東スラヴ人、バルト人およびフィンランド人を含み、ヴァリャーグの王子リューリクによって創設されたリューリク朝の治世下で複数の公国が緩やかに連合していた[3][4][5]。 ベラルーシ、ロシア、ウクライナの現代の国家はいずれもキエフ大公国を文化的な祖先とし[6]、ベラルーシとロシアはそれ(ルーシ)に由来する名称である。(そのため、キエフは「ロシアの都市の母」とされている[7]。)。リューリク朝は16世紀にロシア・ツァーリ国となるまで大公国の一部を支配し続けた[8]。11世紀半ばの最大時には、北は白海から南は黒海、西はヴィスワ川の源流から東はタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねた。
原初年代記によれば、東スラヴの諸地域を現在のキエフ大公国に統合し始めた最初の統治者はオレグ大公(879年-912年)である。彼は東からのハザール人の侵入から貿易を守るため、ノヴゴロドからドニエプル川流域に沿って南へ支配地域を広げ[3]、首都をより戦略的なキエフに移した。スヴャトスラフ1世(972年没)は、ハザール人と征服戦争を行い、キエフ大公国の領土を初めて大きく拡大した。ウラジーミル大帝(980年〜1015年)は、自らの洗礼によってキリスト教を導入し、勅令によってキエフとその周辺のすべての住民にキリスト教を広めた。(これが、ロシア正教会の起点とされる[9]。)キエフ大公国は賢者ヤロスラフ1世(1019年-1054年)の時代に最大規模に達し、彼の息子たちは彼の死後すぐに最初の成文法である『ルースカヤプラウダ(「ルーシの正義」)』を編纂・発行した[10]。
11世紀後半から12世紀にかけて衰退し始め、様々な地域勢力に分裂した[11]。 さらにコンスタンティノープルの衰退[12]による東ローマ帝国との商業関係の崩壊、それに伴う領土内の通商路の減少など、経済的要因によっても弱体化した。1240年代にモンゴルの侵攻を受け、ついに国家は崩壊した。