ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)
イギリスの政治家、貴族 (1792-1878) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル(John Russell, 1st Earl Russell, KG, GCMG, PC, FRS、1792年8月18日 - 1878年5月28日)は、イギリスの政治家、貴族。
概要 生年月日, 出生地 ...
初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセル John Russell, 1st Earl Russell | |
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初代ラッセル伯(ジョン・ジェイベズ・エドウィン・メイオール(英語版)撮影) | |
生年月日 | 1792年8月18日 |
出生地 | グレートブリテン王国、ロンドン、メイフェア |
没年月日 | 1878年5月28日 (満85歳没) |
死没地 | イギリス、サリー州、リッチモンド公園、ペンブローク・ロッジ |
出身校 | エディンバラ大学 |
所属政党 | ホイッグ党→自由党 |
称号 |
ガーター勲章勲爵士 (KG) 聖マイケル・聖ジョージ勲章一等勲爵士 (GCMG) 枢密顧問官 (PC) |
配偶者 |
(1) アデレード・リスター (2) レディ・フランセス・エリオット |
親族 |
第4代ベッドフォード公爵 (曽祖父) 第6代ベッドフォード公爵 (父) 第2代ミントー伯爵 (義父) 第3代ラッセル伯爵(孫) |
サイン | |
在任期間 |
1846年7月6日 - 1852年2月20日 1865年10月30日 - 1866年6月26日[1] |
女王 | ヴィクトリア |
内閣 |
アバディーン伯爵内閣 第二次パーマストン子爵内閣 |
在任期間 |
1852年12月28日 - 1853年2月21日 1859年6月18日 - 1865年10月30日[1] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1861年 - 1878年[2] |
庶民院議員 | |
選挙区 |
タヴィストック選挙区(英語版) タヴィストック選挙区(英語版) ハンティンドンシャー選挙区(英語版) バンドン選挙区(英語版) タヴィストック選挙区(英語版) デヴォンシャー選挙区(英語版) サウス・デヴォン選挙区(英語版) ストラウド選挙区(英語版) シティ・オブ・ロンドン選挙区(英語版)[2] |
在任期間 |
1813年5月4日 - 1817年3月12日 1818年6月18日 - 1820年12月31日 1820年3月16日 - 1826年6月20日 1826年12月19日 - 1830年8月7日 1830年11月27日 - 1831年7月13日 1831年5月10日 - 1832年12月10日 1832年12月10日 - 1835年1月6日 1835年5月19日 - 1841年6月29日 1841年6月29日 - 1861年7月27日[2] |
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ホイッグ党(自由党の前身)の改革派として名を馳せ、メルバーン子爵退任後にホイッグ党首となり、1846年に首相となったが、パーマストン子爵と対立を深め、党内が分裂状態となり、1852年2月に総辞職した。
ついで1852年12月成立のピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣に外務大臣として入閣。1855年2月にパーマストン子爵が首相となるとホイッグ党首の座も彼に譲る。ホイッグ党が野党だった頃の1859年6月にパーマストンと和解して自由党結成と保守党政権打倒に貢献した。第二次パーマストン内閣に外務大臣として入閣し、パーマストンが1865年に死去すると代わって首相・自由党党首となったが、翌1866年に選挙法改正に失敗して総辞職した。1867年に自由党党首の座をグラッドストンに譲った。
1861年までは卿の儀礼称号を付けて「ジョン・ラッセル卿」と称されていた[注釈 1]。哲学者の第3代ラッセル伯爵バートランド・ラッセルは孫にあたる。