ズファル・ブン・アル=ハーリス・アル=キラービー
第二次内乱期のカイス族の指導者 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
アブル=フザイル・ズファル・ブン・アル=ハーリス・アル=キラービー(アラビア語: أبو الهذيل زفر بن الحارث الكلابي, ラテン文字転写: Abuʾl-Hudhayl Zufar b. al-Ḥārith al-Kilābī, 694年もしくは695年没)は、7世紀末のイスラーム世界の第二次内乱期にウマイヤ朝とその支持母体であったカルブ族(英語版)と戦った部族連合のカイス族(英語版)の指導者である。
ズファル・ブン・アル=ハーリス・アル=キラービー | |
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ジュンド・キンナスリーン(英語版)総督 | |
任期 684年 | |
前任者 | サイード・ブン・マーリク・ブン・バフダル・アル=カルビー |
後任者 | アバーン・ブン・アル=ワリード・ブン・ウクバ |
個人情報 | |
生誕 | 不明 |
死没 | 694年もしくは695年 |
親戚 | |
子供 |
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親 | アル=ハーリス・ブン・ヤズィード・アル=アーミリー(父) |
兵役経験 | |
所属組織 |
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戦闘 |
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アラブの大部族であるアーミル族(英語版)に属していたズファルは、656年に起こったイスラーム世界の第一次内乱(英語版)期にラクダの戦いでアーイシャの軍の一員として正統カリフのアリー・ブン・アビー・ターリブと戦った。その翌年にはイラクからジャズィーラ(メソポタミア北部)に移り、スィッフィーンの戦いでは当時のシリア総督のムアーウィヤ・ブン・アビー・スフヤーン(後のウマイヤ朝の創始者)の下で再びアリーと戦った。ムアーウィヤの死後はその息子のヤズィード1世に仕え、ジュンド・キンナスリーン(英語版)(シリア北部の軍事区)の軍を率いて683年のハッラの戦いでウマイヤ朝に対する反乱軍と戦った。
同年にヤズィード1世が死去すると、本拠地のキンナスリーンでウマイヤ朝を支援するカルブ族の支配下に置かれている状況に不満を抱いていたカイス族がズファルの指導のもとでカルブ族のキンナスリーン総督を追放し、ウマイヤ朝に対抗してカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの支持に回った。カイス族とカルブ族の対立は684年に起こったマルジュ・ラーヒトの戦いで最高潮に達したが、この戦いでカイス族は大敗を喫し、ズファルはユーフラテス川沿いのカルキースィヤー(英語版)に逃れてこの地を本拠地とした。
その後はカイス族を率いて主にシリア砂漠で何度かにわたりカルブ族を襲撃したが、686年以降、同胞のカイス系の部族であるスライム族(英語版)がそれまで中立的な部族であったタグリブ族(英語版)と激しく対立するようになった。ズファルは両者の関係の修復を試みたものの失敗に終わり、スライム族とともにタグリブ族と戦った。685年から691年にかけて3度にわたるカルキースィヤーの包囲に耐えていたズファルは、最終的にウマイヤ朝のカリフのアブドゥルマリクによる説得を受け入れて和平を結ぶことに合意し、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルへの支持を放棄することと引き換えにウマイヤ朝の宮廷と軍隊で高い地位を得た。自身のカイス族の部隊もウマイヤ朝の軍隊に組み入れられ、この時以降ウマイヤ朝のカリフはカルブ族が属する部族連合のヤマン族(英語版)とカイス族の間の利害の均衡を図るようになった。
ズファルの子孫はズファルの名声と地位を受け継ぎ、アブドゥルマリクの後継者の下でカイス族を主導するとともにウマイヤ朝を支援した。ズファルの孫のマジュザア・ブン・カウサル(英語版)は、ウマイヤ朝を倒したアッバース朝に対し750年にカイス族を率いて反乱を起こしたが、失敗に終わり、多くの一族の者とともに殺害された。