ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦
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ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦(英: New York and New Jersey campaign)は、アメリカ独立戦争中の1776年から1777年の冬にかけて、ニューヨーク市とニュージャージーの支配を巡って、ウィリアム・ハウ将軍指揮するイギリス軍とジョージ・ワシントン将軍指揮する大陸軍の間で行われた一連の戦闘である。ハウはワシントン軍をニューヨーク市から追い出すことに成功したが、ニュージャージーまで手を伸ばし過ぎたがために、1777年1月にはニューヨーク市近くに幾つかの前進基地を保持するだけで、活動できる作戦シーズンを終わらせることになった。イギリス軍は戦争の残り期間ニューヨーク市を保持し、他の標的に対する遠征軍の基地として使い続けた。
ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦 New York and New Jersey campaign | |
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作戦における両軍の動き | |
戦争:アメリカ独立戦争 | |
年月日:1776年7月-1777年1月 | |
場所:ニューヨーク市、ニュージャージー | |
結果:イギリス軍がニューヨーク市を占領 大陸軍はニュージャージーを一時損失したが取り戻した | |
交戦勢力 | |
大陸軍→ アメリカ合衆国 | グレートブリテン王国 ヘッセン=カッセル |
指導者・指揮官 | |
ジョージ・ワシントン チャールズ・リー(捕虜) ジョン・サリバン |
ウィリアム・ハウ チャールズ・コーンウォリス リチャード・ハウ |
戦力 | |
正規軍と民兵合計20,000名[1] | 陸軍兵25,000名 海軍兵10,000名[2] |
損害 | |
戦死、負傷、捕虜の合計4,400名以上[3] | |
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ハウは1776年3月にボストン市を保持することに失敗した後、撤退した軍隊にイギリス本国からの援軍と、さらに神聖ローマ帝国の幾つかの侯国からドイツ人傭兵を加えて軍隊を集結させた。まず7月3日にイギリス軍がスタテンアイランドに無抵抗で上陸したことに始まり、8月には再度無抵抗でロングアイランドに上陸し、ワシントン軍をブルックリンやローワーマンハッタンから北のホワイトプレインズに追い出した。この時点でハウはマンハッタンに戻り、マンハッタン島の北部にワシントンが残していった部隊を捕獲した。
ワシントン軍はボストン包囲戦に参加した部隊の他に遠くバージニアなどの植民地からの連隊も加えていた。その軍隊の大半はハドソン川を越えてニュージャージーに渡り、さらにデラウェア川を越えてペンシルベニアまで撤退したが、兵士の徴兵期限切れ、脱走および士気の低下もあって勢力が減退していた。ハウは12月に入ってその軍隊に冬季宿営入りを命令し、ニューヨーク市からニュージャージーのバーリントンまで一連の前進基地を構築させた。1776年暮れ、ワシントンは軍隊の士気を上げるために凍ったデラウェア川を渡って、ニュージャージーのトレントンにあったイギリス軍守備隊を急襲して成功し、ハウの前進基地の連なりをニューブランズウィックとニューヨークに近い海岸線まで押し戻した。ワシントン軍はニュージャージーのモリスタウンで冬季宿営を張った。その冬の残りは、イギリス軍がまぐさと食料を求めていたので、たびたび小競り合いを繰り返した。
イギリス軍は1783年にアメリカ独立戦争が終わるまでニューヨーク市とその周辺の領地を支配し続け、北アメリカの他地域に対する作戦の基地として使った。1777年、ハウはフィラデルフィアを占領するための作戦を開始し、ニューヨーク市地域の指揮はヘンリー・クリントン将軍に任せた。一方ジョン・バーゴイン将軍がケベックからハドソン川流域の支配を目指して南下し、サラトガで挫折した。戦争の残り期間、ニュージャージーの北部と海岸部はニューヨーク市を占領するイギリス軍からの小競り合いや襲撃の舞台となり続けた