ボストン虐殺事件
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ボストン虐殺事件(ボストンぎゃくさつじけん、英:Boston Massacre)は、1770年3月5日にイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンにおいてイギリス駐屯軍の部隊8名と、約300名から400名になる市民が衝突し、群衆側の投石などに対してイギリス兵が発砲して市民5名を射殺した事件。この一件をポール・リビアやサミュエル・アダムズといった植民地の自治権を求める者たち(パトリオット)が「虐殺(massacre)」と呼称して大きく報じたため、この名前で呼ばれる。イギリス側は事件が発生した地名からキング・ストリート事件(キング・ストリートじけん、英:Incident on King Street)と呼ぶ[1]。
ボストン虐殺事件 Boston Massacre | |||
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『血まみれの虐殺(The Bloody Massacre)』と題されたポール・リビアによる1770年の版画(クリスチャン・レミックによる手彩色版)。 | |||
日時 | 1770年3月5日 | ||
場所 | ボストン | ||
原因 |
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結果 | 植民地人5名を殺害 | ||
被告 |
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有罪判決を 受けた人 | モンゴメリー、キルロイ | ||
罪状 | 殺人罪 | ||
評決 | モンゴメリーとキルロイの2名については故殺罪で有罪とし、残りの者については無罪 | ||
判決 | モンゴメリーとキルロイの2名に対して親指への烙印 | ||
参加集団 | |||
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指導者 | |||
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人数 | |||
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死傷者数 | |||
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1767年にイギリス本国議会(グレートブリテン議会(英語版))で制定されたタウンゼンド諸法はアメリカ植民地で自治権を侵害するものとして強い反発を招き、これに対してイギリスは1768年よりマサチューセッツ湾直轄植民地に王室から任命された政府役人の警護や、同法の執行支援のため、イギリス軍を駐屯させていた。このため市民と駐屯兵の関係が緊迫する中で、些細な諍いをきっかけに、暴徒化した群衆が数人の兵士を取り囲み、罵倒したり、石や氷塊を投げつけた。トマス・プレストン大尉率いる6名の兵士が救援にかけつけたが、事態は収拾せず、そのうち、1名の兵士による不意の発砲により、プレストンの発砲命令なく他の兵士たちも次々に群衆に発砲した。この銃撃で3名が即死、8名が負傷し、うち2人がその後亡くなった。
代理総督のトマス・ハッチンソンが捜査を約束したことで群衆は解散し、翌朝にはプレストンと8名の兵士が逮捕されたが反イギリス感情の高まりから、最終的に軍はキャッスル島に退避せざるを得なかった。その後、プレストンら9名と民間人4名が殺人罪で起訴されたが、裁判は時間による沈静化を狙ったハッチンソンにより、半年以上経ってから行われた。この裁判では後の合衆国大統領ジョン・アダムズが被告人の弁護を担い、プレストンと兵士6名は無罪、兵士2名は故殺罪(英語版)で有罪となった。また、有罪となった2名は本来は死刑であったが、当時の法慣習によって減刑され、親指への烙印の罰となった。
この事件は自治独立を志向する著名な愛国派(パトリオット)が、「虐殺(massacre)」という言葉を用いるなど、時に誇張も伴って植民地社会に喧伝され、イギリス本国と13植民地全体との緊張を高めた。特にリビアが制作した色刷りの版画が知られる。事件の結果、タウンゼンド諸法が一部撤廃されるなどしたが、本国と植民地の溝は埋まらず、その後もガスピー号事件(英語版)やボストン茶会事件などが起こり、最終的に1775年のアメリカ独立戦争に至ることになる。