ムハンマド3世 (ナスル朝)
ナスル朝第3代君主 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
ムハンマド3世(アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・ムハンマド, アラビア語: أبو عبد الله محمد بن محمد, ラテン文字転写: Abū ʿAbd Allāh Muḥammad b. Muḥammad, 1257年8月15日 - 1314年1月21日)は、第3代のナスル朝グラナダ王国の君主である(在位:1302年4月8日 - 1309年3月14日)。
ムハンマド3世 أبو عبد الله محمد بن محمد | |
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グラナダのスルターン[注 1] | |
在位 | 1302年4月8日 - 1309年3月14日 |
全名 | アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・ブン・ムハンマド |
出生 |
1257年8月15日 (ヒジュラ暦655年シャアバーン月3日) グラナダ |
死去 |
1314年1月21日 (ヒジュラ暦713年シャウワール月3日) グラナダ |
埋葬 | アルハンブラ宮殿 |
王朝 | ナスル朝 |
父親 | ムハンマド2世 |
宗教 | イスラーム教 |
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ムハンマド3世は1302年に父親のムハンマド2世の死を受けてスルターンに即位した。即位当初は父親が成功裏に進めていたカスティーリャ王国との戦争を継続させ、1303年にはナスル朝が貢納金を支払い、カスティーリャの臣下になることと引き換えに戦争で獲得した都市の割譲をカスティーリャが認める形で和平が成立した。その後、ムハンマド3世は北アフリカへの進出を図り、1304年にマリーン朝の支配下にあったセウタの反乱を扇動して独立を宣言させると、1306年には艦隊を派遣してセウタを占領した。この結果、イベリア半島側のアルヘシラスとジブラルタルを含むジブラルタル海峡における強力な支配を手に入れた。
しかし、この状況は近隣諸国の警戒を呼ぶことになり、1308年にはナスル朝に対抗するカスティーリャ、アラゴン、およびマリーン朝の三国間の同盟が成立した。この外交上の失策に加えて同盟を結んだ三国がナスル朝に対する戦争の準備を始めたことで、ムハンマド3世と国政の実権を握っていたワズィール(宰相)のイブン・アル=ハキーム(英語版)は著しく評判を落とした。結局、1309年3月14日にクーデターによってムハンマド3世は退位させられ、イブン・アル=ハキームは処刑された。異母弟のナスルが後継のスルターンになったものの、ナスルの治世中に二度にわたってムハンマド3世を復位させようとする企てに巻き込まれ、最終的に退位から5年後の1314年にアルハンブラ宮殿で殺害された。
ムハンマド3世の治世は祖父のムハンマド1世や父親のムハンマド2世の長い治世とは対照的にかなり短いものに終わったため、後に歴史家から「アル=マフルー」(退位者させられた者)の通り名で呼ばれるようになった。また、アルハンブラ宮殿に大モスクを建設し、パルタル宮(英語版)の建設を開始した。ムハンマド3世は即位時に父親の暗殺の噂が流れるなど残忍さを示す言い伝えが残る一方で、ユーモアの精神があり、詩や文学を好んでいたことで知られている。ムハンマド3世が作った詩の一部は、イブン・アル=ハティーブの著作の『アッ=ラムハ』の中に収められている。