モンゴルのジャワ侵攻
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モンゴルのジャワ侵攻(モンゴルのジャワしんこう)では、1293年にジャワ島に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。
概要 モンゴルのジャワ侵攻, 時 ...
モンゴルのジャワ侵攻 | |||||||
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モンゴル帝国の征服戦争中 | |||||||
大元ウルスの艦隊(Sir Henry Yule/1871) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ダハ陥落前 | ダハ陥落前 | ||||||
ダハ陥落後 | ダハ陥落後 | ||||||
指揮官 | |||||||
戦力 | |||||||
20,000名 1,000艘 | 不明 | ||||||
被害者数 | |||||||
最終的な死者数は3,000を越える | ジャヤカトワン王の軍団は溺死者が数万人、殺された者は5000人余り |
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モンゴル帝国(大元ウルス)第6代皇帝クビライが派遣した使者がシンガサリ王クルタナガラによって入墨をされて返されるという事件を切掛けとして始まったジャワ遠征であるが、モンゴル軍がジャワ島に到着するまでにクルタナガラ王はクディリのジャヤカトワン王によって弑逆されてしまっていた。モンゴル軍はクルタナガラ王の女婿であったウィジャヤに誘導されてジャヤカトワン王を討ったものの、その後ウィジャヤの裏切りにあってジャワ島からの敗退を余儀なくされた。
モンゴル軍にとっては全くの失敗に終わった遠征であったが、一方でモンゴル軍を上手く利用したウィジャヤはマジャパヒト王国を築き、マジャパヒト王国は東南アジア島嶼部の大部分を支配する大国に成長するに至った。また、遠征の失敗にもかかわらず、ジャワ遠征以後中国大陸とジャワ島の貿易交流は増大しており、東南アジア島嶼部にとっては歴史の大きな転換点となる事件であったといえる[2]。