中部リトアニア共和国
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中部リトアニア共和国(ポーランド語: Republika Litwy Środkowej、リトアニア語: Vidurio Lietuvos Respublika、ベラルーシ語: Рэспубліка Сярэдняе Літвы)あるいは単に中部リトアニア(ポーランド語: Litwa Środkowa, リトアニア語: Vidurio Lietuva または Vidurinė Lietuva、ベラルーシ語: Сярэдняя Літва)は、1920年代に東ヨーロッパに存在していた国家(ただし国際承認はされていなかった)。日本語では中央リトアニア共和国や中央リトアニアなどとも称される[2][3][4][5]。
中部リトアニアは1920年、ルツィアン・ジェリゴフスキ(ポーランド語版)将軍率いるポーランド軍第1リトアニア=ベラルーシ歩兵師団がヴィルノに侵攻したことにより建国された(この侵攻はポーランド空軍や騎兵隊、砲兵隊なども援護していた)[6]。ヴィルノはかつてのリトアニア大公国の首都(リトアニア語でヴィリニュス)であったことから独立を果たしてすぐのリトアニア共和国が自国の領土であると主張しており、そのため中部リトアニアはポーランドとリトアニアの緩衝国として18ヶ月間存続していた[7]。1922年1月8日、中部リトアニアで選挙が行われ、数でリトアニア住民を上回るポーランド人が勝利を果たし、その結果ポーランドへの編入が決定、4月20日にポーランド議会がそれを承認した[8]。
ポーランドが中部リトアニアを編入したことによってできた新たなポーランド=リトアニア間の国境は、日本を含む協商国[9][10]や国際連盟[11]からは承認されていたが、リトアニアはこれを認めず[12]あくまで「境界線」に過ぎないとしていた[13]。1931年、ハーグの国際法廷は、ポーランドによる編入の経緯は国際法に反すると判断しているものの、編入自体は国際的に承認されている[11]。なお、ポーランドとリトアニアの国交はその後1938年まで樹立されないままであった。