東ローマ帝国
中世のローマ帝国 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国[注 1]、ビザンティン帝国、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には西暦395年以降の東の皇帝の統治領域を指す[注 2]。皇帝府は主としてコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)[注 3]に置かれた[注 4]。
公用語 | ラテン語 ギリシア語 (620年以降[1]) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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首都 | コンスタンティノープル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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通貨 | ノミスマ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在 | ギリシャ トルコ 北マケドニア アルバニア モンテネグロ セルビア ブルガリア ロシア ウクライナ ボスニア・ヘルツェゴビナ クロアチア スロベニア イタリア バチカン フランス サンマリノ スペイン ポルトガル マルタ キプロス レバノン シリア パレスチナ イスラエル ヨルダン エジプト リビア チュニジア アルジェリア ルーマニア モロッコ サウジアラビア ジョージア アゼルバイジャン アルメニア |
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- 東ローマ帝国
- Res Publica Romana
Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων -
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←395年 - 1453年 ↓ (国旗) (国章)
東ローマ帝国の版図の変遷-
- 公式な国号は「ローマ帝国」。
- 正式な成立時期はない。
5世紀中頃の史家ソクラテス(英語版)は、コンスタンティヌスが「その町を帝都ローマに等しくすると、コンスタンティノープルと名付け、新しいローマと定めた」と書き、井上浩一は「コンスタンティヌスがローマに比肩するような都市として、コンスタンティノープルを作ったという考えが見られるようになり、西ローマ帝国が滅びた五世紀末には、皇帝権がローマからコンスタンティノープルに移ったと明確に主張されるようになった」とコメントしている[2]。
同地の人々は遅くとも6世紀中頃までには公然と「ローマ人」を自称するようになった[3][注 5]。9世紀以降には西ローマ皇帝の出現を受けて「ローマ皇帝(ローマ人のバシレウス)」といった語が意識的に用いられるようになった[4][5][6]。
ローマ帝国本流を自認するようになった彼らが自国を「ビザンツ帝国」あるいは「ビザンティン帝国」と呼んだことはなく[7]、正式な国名および国家の自己了解は「ローマ帝国(ラテン語:Res Publica Romana; ギリシャ語: Πολῑτείᾱ τῶν Ῥωμαίων, ラテン文字転写: Politeia tōn Rhōmaiōn; ポリティア・トン・ロメオン)」であった[8][注 6]。中世になると帝国の一般民衆はギリシア語話者が多数派となるが、彼らは自国をギリシア語で「ローマ人の土地(Ῥωμανία, Rhōmania, ロマニア)」と呼んでおり[注 7]、また彼ら自身も12世紀頃まで[注 8]は「ギリシア人(Ἕλληνες, Hellēnes, エリネス)」[注 9]ではなく「ローマ人(Ῥωμαίοι, Rhōmaioi, ロメイ)」を称していた。
西暦476年に西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスがゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって廃位された際、形式上は当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の皇帝権が再統一[注 10]された。帝国は一時期は地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシア化が進んでいったことから、同時代の西欧やルーシからは「ギリシア帝国」と呼ばれ、13世紀以降には住民の自称も「ギリシア人」へと変化していった[12]。