輪中
堤防で囲まれた構造、あるいはその集落 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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輪中(わじゅう)とは、一般的には堤防で囲まれた構造、あるいはその集落を意味する[1]。濃尾平野の木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)とその支流域にあたる岐阜県・三重県・愛知県の県境付近に発展しており[2][1]、曲輪または郭(くるわ)・輪の内(わのうち)など輪中を意味する用語は多数存在する[3][4]。
本来『輪中』や『輪の内』は「同じ目的の仲間」の意味で用いられた言葉であり[5][6]、水害から集落や耕地を守るために地域住民が共同で水防を整える過程で自然発生的に使用されるようになったと考えられるため、実際のところ「輪中」の定義には諸説があり定まっていないところが多い[1]。地理学者の安藤万寿男、歴史地理学者の伊藤安男らは輪中についての地理学的なグループ研究を推進し、1975年に出版された『輪中 その展開と構造』の中で
輪中とは、(木曽三川流域の)低湿地に存在する集落と農地とを包括する囲堤を持ち、水防組織体をつくって外水および内水を統制する治水共同体、またはその存在する範囲をいう。—輪中研究グループ編著『輪中 その展開と構造』79頁(括弧書きは伊藤安男論文による補足)
- 囲堤を持つこと
- 集落と耕地を包括していること
- 水防組合を組織して水の統制をしていること
の3つに集約しており[1][6]、中でも特に「水防組合の形成をもって輪中の成立とみなすべき」と伊藤安男が1983年の論文で指摘している[4]。つまり「輪中」とは堤防で囲まれた見た目だけでは不十分であり、組織的な水防活動を伴う構造的なものととらえる必要がある[1][6]。
なお、日本において現在のように連続堤による治水が一般的となるのは明治時代以降のことであり、江戸時代以前は集落や耕地を守るために必要に応じて堤防で築く治水方法が中心であった[4][8]。「輪中」のように集落や耕地を囲んだ堤防は信濃川・荒川・利根川・淀川などの流域にも現存し[9][10]、信濃川流域では「囲土手」、荒川・利根川流域では「囲堤」、淀川流域では「囲縄手」などの名称で呼ばれていた[9]。かつてはこれら全てを「輪中」と総称されたが、前述のグループ研究などで「輪中」の構造的な側面が論じられると同一視は不適当と考えられるようになり[9]、現在では木曽三川流域以外のものは「輪中」とはみなさない場合が多い[9]。こういった堤防で囲まれた集落について、伊藤安男は著書『地表空間の組織』で「囲堤集落」の用語を提唱した[4][11]。木曽三川以外の地域については「木曽三川以外の囲堤集落」節で詳説する。
また、輪中はオランダの干拓地である「ポルダー(蘭: polder)」と比較されることも多い[6]。その例として、地理学者の別技篤彦が輪中を日本の学界に紹介する際に「日本のポルダー」と称し、オランダ技師のヨハニス・デ・レーケは輪中地域の河川改修計画図で輪中に対応する語として「POLDER」を用いていた[6]。安藤万寿男は輪中もポルダーも「堤防を築いて水から土地を守る」という点で共通するとするものの、輪中とポルダーには形成範囲や堤防の形状、堤内の土地利用方法、水防活動の考え方など性格が異なる点が多いと指摘している[6]。