マスキンの戦い
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マスキンの戦い(マスキンのたたかい、英: Battle of Maskin、アラビア語: معركة مسكن)は、戦場に隣接するネストリウス派の修道院の名からダイル・アル=ジャーサリークの戦い(ダイル・アル=ジャーサリークのたたかい、英: Battle of Dayr al-Jathaliq、アラビア語: معركة دير الجثاليق)の名でも知られるイスラーム世界の第二次内乱(683年 - 692年)の帰趨を決めた戦いである。
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戦闘は691年10月中旬に現代のバグダードに近いティグリス川西方のマスキン近郊で、ウマイヤ朝のカリフのアブドゥルマリクの軍隊とメッカを本拠地とする対抗のカリフであるアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟でイラクの総督のムスアブ・ブン・アッ=ズバイル(英語版)の軍隊の間で行われた。戦闘が始まった時点ですでにムスアブの武将のほとんどが密かにアブドゥルマリクへ忠誠の対象を移していたため、ムスアブに忠実であった有力な武将のイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタルが戦死すると、これらの者たちは戦うことを拒否した。その後ムスアブも戦死を遂げ、ウマイヤ朝が勝利するとともにイラクの奪還に成功した。この結果、692年後半にウマイヤ朝がヒジャーズ(アラビア半島西部)を再征服して内乱を終結させる道が開かれることになった。